~北限のサル・沿革3~

2000年代はサルによる農作物被害が下北半島全域に広がり、国の天然記念物である「北限のサル」が文化財保護法で守られる貴重な存在ではなく、害獣という悪者のイメージが色濃くなってきた。

かつて脇野沢村が個体数保護のために行った「餌付け」が大きな原因でもあるという印象さえただよった。脇野沢村で実施した人家侵入ザルの「お仕置き離獣」も効果がみえず、人とサルとの共存に陰りもみえはじめた。



 当時、北限のサルの保護と被害対策をともに管轄していた脇野沢村の教育委員会は窮地にたたされていた。旅人に状況を喋ると、「えっ、サルの被害対策をなんで教育員会が担当するのですか?」とみんな不思議そうな顔をした。

考えてみれば不思議はない。教育委員会=学校教育指導というイメージが強く、農作物被害を担当すること自体のつながりがみえないのは当たり前。

国の天然記念物は文化財、縄文遺跡や歴史的建造物も文化財であれば教育委員会の仕事。つまり北限のサルはそれらと同じで、ニホンカモシカも種として特別天然記念物として指定されているので文化財なので、すべて教育委員会の役割・・、と説明すると、ようやく納得。

18年間の餌付けも教育委員会の大きな仕事だったわけで、地元ではそのまま北限のサル=教育委員会という図式ができあがっていました。しかし、脇野沢の事例は特殊であって、全国的には大半のサル食害の対策は行政の農林部が担当することが一般的でした。

下北半島、現実的には脇野沢村の北限のサル関連のニュースがかなり全国報道されましたが、そこまでの細かい部分は伝わっていなかったのです。




 当時の脇野沢村ではサルによる人家侵入事件が後を断たず、「下北半島ニホンザル 第1次特定鳥獣保護管理計画」が公布された2004年に、13頭の人家侵入を繰り返す問題個体を特定して、捕獲した後は「安楽死」という措置をとりました。

その時の作業を脇野沢村教育委員会が主導したわけですから、当時の「捕獲」「安楽死」の報道は全国的に広がり、反響がとても大きかった。3日間、教育委員会の電話は鳴りっぱなし。

「こどもたちに命の大切さを教える教育委員会がなぜ人間の身勝手でサルの命を絶つのだ・・」、「人間よりサルの方が先住ではないのか・・」、「人間が出てゆけばいい・・」、異口同音に200件以上の苦情が殺到した。一部には「捕獲」を支持する応援もあったが、全国からさんざん叩かれた。理屈は抗議側に分があった。

 公布された「保護管理計画」には、捕獲した際には「苦痛を伴わない安楽死」という条文が綴られていたが、世の中には、それを認めない風潮が強かった。「野生の命は重く」当時はまだ「野生動物との共存」というイメージが色濃かった。

 2007年、脇野沢村は市町村合併によってむつ市となり、「北限のサル」の被害対策の所轄は農林部に移ることになった。

続く


いそやまたかゆき

2017.05