牛ノ首物語・「グレーひとり」

 
 10月にはいっても、残暑的な暑さが森の中にただよっている。斜面を上ると汗がにじみだす。休憩でじっとたたずむとすぐヤブ蚊が集まってくる。腕に止まった相手をみていると、まだ刺そうと懸命である。とても初秋とは思えない。夏以降、時間のすき間をみつけて牛ノ首観察を試みるが、ずっと「坊主」が続いている。北限のサルたちも別の場所を利用している。下草もまだ多く残り、森の中の見通しも悪いままで、良好な観察条件ではない。この日は、いつものスギ林と雑木林の境界にある歩道で休憩した。カモシカやサルの交差点になってところである。斜面をのぼり切った彼らは、そのまま通過したり、一度休憩したりして、フラフラとまた斜面をのぼってゆく。きょうの私は長期休憩を決めつけた。いろいろなことを考えながら、10年前から続けている地元FM局の番組のための録音をはじめた。「森の中で~サルの目・カモシカの目~」というタイトルにしたがい、ほとんどを森の中で録音している。最近のデジタル機器の発達で、録音機は小さく、山歩きの際でもポケットにしのばせることが出来、観察しながら音声を収録できるのは、これ以上の臨場感はない。時々、立ち木につまづいて転び、そのままの「音」も録音されてしまうが、そのまま放送している。ふと、何かの気配を感じた。まわりを見渡しても何もない・・、が、よくみると目の前にカモシカがいた。スギ林の岩の上に座っている。


「グレー」だった。休憩して、録音をはじめるまで15分は経過しているのに全然、気がつかなかった。風景にとけ込んでいたのだろうが、我ながら情けない。グレーは何の信号も発信してなかったのだろう。森のなかでは、人間の感覚は無に等しい。ふりそそそぐ木漏れ陽に、目の感覚もマヒさせられたようだ。撮影をはじめると、ようやくグレーは立ち上がり、かたわらの幼木に眼下腺こすりをはじめた。ようやく「自己主張」した。そして、のっそりと岩からおり、いつものけもの道をあるきはじめた。スギ林を抜け、雑木林を抜けるときは下草が邪魔して姿を見失ないがちになる。意識的に少し距離をつめると、グレーは振り返って眼下腺こすりをしてみせる。「それ以上近づくな!」と言うメッセージだろう。追尾して30分。グレーの周りに子どもがいるような素振りは一度もなかった。この日の観察をみる限り、今春の出産はなかったのだろうと考えざるを得ない。3歳から連続8年の出産は途切れることになった。そんなことを考えていたら、グレーの姿は薮にとけ込んで消えた。グレーにとって寂しい冬になりそうだが、それはそれで牛ノ首岬にとっても同じで、ともに静かな冬が通過してゆくのだろう。