牛ノ首物語8「ミドリの策略」

「ガードレールを乗り越えるミドリ」
 
 うかつだった。あっと叫ぶ間もなく、親子は走り去った。牛ノ首農村公園の海側の歩道を登り切った時、目の前に「グレー」と今年生まれの「パープル」が並んで立っていた。コンマ何秒かの場面だったが残像が個体識別していた。ことの起こりは「ミドリ」に出会ったこと。2010年11月26日、晩秋の牛ノ首岬に向かう途中ミドリを道端に見つけ、車を止めて観察をはじめた。隣にあるトドメキ崎から戻ってきたのだろう。あちらにも馴染みのメスがいるので、交尾期の秋は忙しいのだろう。ミドリはガードレールを飛び越え、道路を横断してあっという間に牛ノ首岬に走り込んでしまった。久しぶりの出会いだったのに幕切れがあまりにもあっけなし。この日はミドリに専念しようと調査目標を絞った。駐車場側に移動し、海岸線の歩道からアプローチすれば頂上付近で会えるものと決めつけていた。「ドッ」「ドッ」「ドッ」・・、だんだん足音は遠ざかっていった。こうなるともう駄目。カモシカは最初の出会いですべてが決まる。問題は歩道を早足で登ったこと。ミドリ一辺倒で、他のことは意識も配慮も何もなかった。起こったことの事実を整理して、気を取り直して、無駄だろうと思いながら親子の後を追った。歩道に1頭のカモシカが立っていた。09年生まれのグレーのこども「イエロー」だった。


「平然とただずむイエロー」

パープルの兄、ミドリの息子である。足音の方向からどう考えてもグレー親子はイエローの横を走り抜けたとしか思えない。一緒にいたとしか思えない。家族があんな勢いで逃げたら誰でもとりあえずは逃げるだろう。「お前は何を考えているのかい」。「お前の母ちゃんと弟はどこまで逃げてしまっただい」。「教えてくれないかな」。答えの替わりにイエローはただ見つめてくるだけ。結論が出ないままグレー親子は姿を消した。帰路、歩道を歩きながらさっきの大騒動を回想していた。「カサッ」。のそっとミドリが現れた。すっかり忘れていた。ミドリは気持ちを見透かすような視線を送ってきた。「俺の家族はどうだったい」、「嫁さんも子どもたちもみんな元気にしているだろう」。「パープルは大きくなったもんだろう」。カモシカの視力はよくないのだが、不思議なことに一部始終を見られていたような錯覚にとらわれた。ミドリは最後の最後に自分の出番をつくった。まさに家族総出の演出だったわけだ。大きくなったパープルの行動は不可解だったが、効果は絶大。言いたいことが終わったのか、ミドリは悠々と海岸斜面に姿を消した。目標は粉砕されたが、おかげで牛ノ首岬のカモシカ全員を観察できた。