牛ノ首物語7
「オリーブ」

 
 08年5月、春だというのに初夏を思わせる日差しが牛ノ首岬にふりそそいでいた。新緑の眩しさに違和感を覚え、無意識のうちに涼しいスギ林を歩いていた。夏は暑さを凌ぐ日傘、冬は外套の変わりに。森は天然素材のエアコン。前方に気配を感じた。この日はカモシカの観察を目的としていたので、ゆっくりとした時間をかける。目を凝らすが何も見えない。風景の一部が動いた。1頭のカモシカがこちらを見ている。ずっと観察されていた。距離は30m。安全な距離だが、こちらに来る予感がして、待機することに決めた。案の定、近づいてきた。昨年生まれの「オリーブ」だ。しかしこの時が大事。逸る気持ちや焦りの行動は禁物。写真を撮ろうと考えることも駄目。気持ちが全身から発信されて空気が変わる。カモシカにとって空気の変化は「殺気」になる。こうなると絶対に近づけない。もう一点。生まれて一年前後のこどもには母親が一緒の場合が多い。親の「グレー」の姿が見えないことも要注意。どこかに隠れていて「フシュッ」と一声やられれば一巻の終わり。辛抱やお膳立てが水の泡。カモシカは厄介な相手である。ではどうすれば良いのか? 簡単に言うと、「お前を見ていない」、「撮影する気持ちなんてないよ」と考える。


 
強く念じて自分の気持ちを偽る。自分を騙して相手を欺く。長年カモシカと付き合って結論した方法だが、これがなかなか思うように出来ない。大体、邪念が出て失敗する。人間の時間で物を考えてうまく行かない。なかなか自分を欺けないものである。この日は絶好調だった。オリーブはどんどん近づいてくる。頭を動かしながら反応を探ってくる。警戒より興味が優先していることが分かる。まだ我慢。距離は3mになった。慎重にカメラを持ち上げた。「カシュン」。デジカメの金属音が静寂の林内に大きく響く。「まずい!」と思ったが、オリーブは探究心の塊になっている。3枚目を撮り終わった頃はさすがのオリーブは限界を感じたらしく、後ずさりし、来た方向に戻り始めた。安全距離を保ちながら追跡するが、下枝を踏む音が大音響を奏でる。その度にオリーブの耳がクルクル廻る。歩みがだんだん速くなる。離され始め、少し焦りが出る。オリーブの背中から「来るな!」と言わんばかりのオーラが出ている。そしてとうとうスギ林を抜けた辺りで姿が消えた。 忘れていた暑さが戻り、潮騒が聴こえ、若芽の匂いがした。共有していたカモシカの時間はすっかり消え失せていた。