牛ノ首物7
「角が折れたミドリ」

角が折れる前のミドリ
 
 2007年12月。晩秋がうっすら雪で覆われはじめた頃、いつもの歩道から海岸側斜面を下り、雑木林を双眼鏡で覗いた瞬間、声が出た。「えっ、お前は誰だ!」。左角が半分程で折れている。牛ノ首岬にはいないカモシカだ。瞬間に判断した。はじめて出会うカモシカは要注意。氏素性が不明。馴染みがないので性格が分からない。慎重に慎重を期して近づき、観察を積み重ねて細かい情報を集める。角の欠損や生え方の角度、性別、年齢、顔の特徴、体型の特徴はないか? 同時にさまざまな憶測も加える。交尾時期の秋はオスがメスを探して広い地域を歩く。隣からナワバリ越境をする場合もある。若い個体はナワバリを持たず、放浪している場合もある。さまざまな視点から観察をする。
 ニホンカモシカの角は生後2年程で一気に成長する。長さは10pを越え、以降根元部分が少しずつ成長して最長20センチ程度で止まる。そのおり冬場の餌事情の悪さが角の成長に現れ、「角輪」と呼ばれる輪が出来る。メスの場合は出産時の栄養状態が角輪に現れ、溝が不規則になる。うまく判別すると出産した年や数までわかる。また、カモシカの識別はナワバリ制を考え、限られたカモシカの中から選択する。言い換えると、馴染みのカモシカを別の場所で識別出来るかと問われると、これは自身がない。ニホンザルの場合は顔が人間に似ており、別の場所でもある程度分かる。新参カモシカの特定は一番厄介である。

左角が折れたミドリ
 
 とにかく、時間をかけて、自問自答しなが接近する。股間を覗き込んでオスの証拠を確認。これは大きな収穫。長い冬毛の場合、これがなかなか難しい。あらゆる特徴を記録したあと、距離を詰めて接近を試みる。逃げられても構わないという気持ちだ。しかし、動じない。そのうち妙な気分になってきた。「前に会ったことがある・・?」。
ここまでくると直感力が目覚める。この感触は知っている。別の言い方をすると「肌触り」。全身がファインダーに入る頃には手応えが自信と変わり始める。「ひょっとして、ミドリ?」。双眼鏡よりカメラが物差しになるのは商売柄かも知れない。ギョロと睨まれた途端、気持ちが弾かれた。「ミドリだ!」。思わず声が出て、力も抜けた。慎重に時間をかけ、新しいカモシカのつもりで情報収集したのは何だったのか。腹立たしさと同時に懐かしさ。そして嬉しさが入混ざった不思議な気持ちが沸き上った。出会いのない観察からてっきりミドリは死亡したものと決めていた。しかし、ミドリは角が折れ、目の前に現れた。もう見間違うことはないだろう。ミドリは反すうを終え、その場に座り込んで、気持ち良さそうに居眠りをはじめた。