牛ノ首物7「牛ノ首岬の時間」

 
 「ニホンカモシカの親子に出会いました」、「サルがいたのですが、あれが北限のサルですか」、「何も会えなかったのですが、気持ちがほっとして、いいところです
ね」。旅人から幾度と聞いた言葉です。我家を訪れる旅人は老若男女。宿泊所はいわば旅の交差点、さまざまな方々がそれぞれの目的を持って訪れ、一夜を一緒に過ごして翌日別れて行く。旅の方法は船旅、
JRバス、そして車にバイクときに自転車といった強者もいる。また脇野沢の自然を第一目的にやってくる旅人もおり、1日いっぱい歩き廻る計画を持ってやってくる。そんなときは必ず、「牛ノ首岬には簡単な散策歩道があって、うまくすると野生動物との出会いもありますよ」といった情報をつけて送り出している。なかには「1時間ほど時間があるのが、どこか・・」といった旅人もおり、全部まとめて牛ノ首岬におんぶさ
せている。考えてみればずいぶん勝手気ままに使いまくっている。しかし、牛ノ首岬は裏切ったことがない。前述した言葉以外に「カモシカらしいお尻を、2秒だけみました!」、「サルのかわいいアカンボウを近くで見ました」、「新緑をみながら海も見えるのですね」、「大きな山ではないのですが、森が満喫出来ました」。全員、それなりに森の時間や牛ノ首岬を自分の風景にして、大満足して戻ってくる。普段と違う時間と空間は旅の醍醐味であろう。ひととき訪れる旅人でさえ満足させてくれる牛ノ首岬。まさに癒しという言葉以上の場所である。そこにすむサルやカモシカがどんな生活を送っているのか、よくわかる。

 
 近年、私たちのまわりには過激な言葉が飛び交い、痛ましい事件も多く起きている。インターネット情報は当たり前になり、バーチャルといった仮想空間という言葉さえも遠い昔の気さえし、現実との境目も本当にわからなくなった。アナログ言葉で言えば「夢」か「幻」かということになるのかも知れないが、とにかく見ること、聞くことすらも不明瞭になっている昨今。そんな中、牛ノ首岬の森に足を踏み入れて、目に前に展開される実際の風景を観て、潮騒や風の音を聴き、木の葉や潮の香りに触れてみると、私たちが持っている五感や第六感が呼び起こされ、体に染み込んでゆくのだろうと思う。そして心地よい気持ちとなって心が癒されてくるのだろうと思う。体感・・であろう。
 87年に当時の脇野沢村に移住して22年が経過する。その間牛ノ首岬は変わらなず、気持ちを和ましてくれる時間を維持し、そこにすむサルやカモシカをはじめさまざまな生物を育み、かけがえのない空間を提供し続けて来た。世の中はつねに変化し、文明が進化し続けるのであろうが、ひとつくらい変化しない場所があってもいいのではないかと考えている。