「ツツジを想う」
生後半年の「モミジ」を抱える「ツツジ」:脇野沢村蛸田

1987年7月25日、脇野沢村に移住してはじめて「ツツジ」と出会った。ツツジは推定で、「北限のサル」が国の天然記念物に指定された1970年生まれなので、出会った時は17才になる。以降13年間記録と写真を撮り続け、01年の春に寿命で死亡した。30才だった。ツツジの死後、長い相棒だったαオス「シャチ」も群れから姿を消し、その後、群れのリーダーは1993年生まれのツツジの末娘「モミジ」が継承、相棒のαオスは「ハモ」になって、群れのリーダーはすっかり世代交代した。ツツジの生涯を年代別に整理してみると、生まれた年は1964年からはじまった餌づけ時代のまっただ中。ツツジは生まれてすぐ人から餌を貰う生活をはじめた。1982年、ツツジが12才になった頃、猿害が拡大して一部の群れが捕獲され、餌づけが停止されて、サルたちは山へと「追い払い」される立場になった。1984年、人間年齢36才のツツジは捕獲から逃れ、24頭の群れをつくった。サルは基本的に群れるのである。捕獲を機に、人とサルは餌で保護する「共生」関係から「住み分け共生」に変わり、人が「追う」、サルは「追われる」立場へと変化しはじめる。激動の時代は続く。群れ捕獲で一時被害が減少したものの、個体数増加に伴って被害地域も拡大した為、1994年に電気柵導入、畑地や人里からの追上げも強化された。この時ツツジは24才。人間年齢の還暦を越えていた。
 ツツジは生まれてすぐ人から餌を貰い、12才になるまで人の手を借りて生活してきた。その後、餌場から追われ、人里から追われ続け、24才になって山に追い返される羽目になった。しかし現実はツツジとその群れは山と人の狭間で生き続けてきた。ツツジは、死亡する直前の冬、体力が落ちて群れについて行けなくなり、ひとり集落の小屋に逃げ込んだ。人に育てられたツツジが最後に人を頼ったのは、何とも意味深いことだった。一時保護していたが、最後は慣れ親しんだ山に戻し、3日後に死亡した。ツツジは数奇な運命をたどった。

4才になる「モミジ」から毛づくろいを受ける「ツツジ」:脇野沢村瀬野

 ツツジの死後、2003年に下北半島ニホンザル保護管理計画が策定され、人的被害を主とした特定個体の捕獲が開始され、初年度、問題個体として14頭のオスザルが捕獲、安楽死させられた。そして2008年春、保護管理計画の見直しを含めて第二次計画が策定され、農作物被害を対象にした捕獲も認められ、現在の下北半島の生息数約1600頭から1100頭程度のレベルまで個体数調整をかけて間引く方向が定められた。
 しかし大きな課題が積み残されている。サルたちの生活場所はどうするのか? 被害防除優先は現状をみるとある程度理解出来るが、本当に住み分け論を目指すのならば、北限のサルの具体的な生活場所、とりわけ餌場となる落葉広葉樹林面積の確保といった提案がなされ示されていない。住み分けの為のゾーニングとして、サルの生息域を
下北半島の国有林地内に限定するというのは、あまりにも大雑把である。餌となる下草が生育しないスギ林は多く存在してもかれらの生活場所にはならず、あまりにも乱暴な話である。重要なのはかれらの食べ物が担保される「落葉広葉樹を主とした森」の確保である。かれらは森の住人である。サルたちの生活場所の確保と人側の被害防除が合体して、はじめて下北半島ニホンザル保護管理計画が現場に機能するのである。
 ツツジが生まれて37年、没後7年になる。この44年間は脇野沢村のサルの歴史であり、下北半島の北限のサルの歴史でもある。今まで手をこまねいていたわけでもないが、どうしても歯止がかからなかった感も強く残る。これから新たな出発を迎えるわけだが、過去を無駄にしないためにも、つねに原点に還る勇気を残しておきたいものだと考えている。ツツジは30年間、何を見て、何を考えて、何を想って旅立ったのであろうか。