牛ノ首物語・・・
「グレー・狂乱」
 
2004年春に誕生した「グレー」のこどもは冬に姿を消した。春を迎えたのは母親のグレーだけだった。そんなこともあって今度こそという意気込みが私にはあって、05年は春から夏にかけてグレーの観察に時間をかけていた。ところがそんな時に限ってグレーと出会うこともなく、手ぶらで下山する日が続いていた。
 「フシュッ、フシュッ」。いきなり茂みから声が聞こえ、同時にドドッという地響きがし、目の前に1頭のカモシカが現れた。2005年9月29日、まだ夏を思わせる暑い日だった。グレーだった。しかし、目を見開らき、鼻孔を膨らませ、殺気すら感じさせる形相はいつものグレーにはほど遠かった。「俺がいったい何をしたんだ!」。思わず叫んだ声も無視、グレーは私のまわりを走り回り、少し離れたところに立っては何度も睨みつけてくる。ずいぶん念の入った威嚇をしてくれるものだ。
 ふと、昔、似た光景に出会ったことを思い出した。私がカモシカを撮影しはじめた1989年。当時は脇野沢村九艘泊の北海岬で、尾根を歩いていたら突然1頭のカモシカが目の前に飛び出し、凄い声で鳴いた。この頃は「声」だと思った。まったくわけがわからない私はなすすべもなく、恐怖を感じて立木に身を寄せた。まだカモシカの顔もよく分からない時で、相手がどんなカモシカで、なぜ攻撃してくるのか、まったく不明だった。

相手の素性が分からず、何を考えているのかわからない時ほど怖いことはない。ましてや相手の生活域である森の中でやられるのである。数日後、同じ場所でこども連れの同じカモシカに出会い、母カモシカの行動の意味をやっと理解することができた。こどもを守る母親、こどもを隠す母親、自分に目を向けさせる母親、少しずつ生きたカモシカ像が見えはじめてきた。たぶんこの頃から相手の立場を考える必要があると思い始めていたと思う。この教訓がなければ、狂乱的に走り回るグレーを落ちついて観察することは出来なかっただろう。
 そんなことを懐かしく思い出していたら、グレーはスタスタと茂みに姿を消してしまった。あっけない幕切れ。この日のグレーの行動でこどもがいることはわかったが、このまま追跡をしてもグレーはこどもを見せてくれないだろう。もちろん写真を撮ろうと考えるのは、もってのほか。母親のグレーとこどもにプレッシャーをかけるだけなってしまう。明日もう一度出直せばいいことだ。この日は記録もそこそこに下山した。
 帰り道、エゾハルゼミの耳をつんざく鳴き声が気にならなかった。気持はすでに明日に向かっていた。