牛ノ首物語「・7
「おとなになったミドリ」
歩道脇でクローバーを採食するミドリ
・ 撮影年月日:04年8月29日
 はやいもので「ミドリ」と再会してからもう1年半が経過した。ミドリとは2000年の6月に初めて顔を合わせた。生後1ヶ月の時である。
 母親は、今はもう亡き「ムラサキ」。いわば彼女の忘れ形見である。02年から1年近く姿を消していたが、思わぬ再会を果たし、以来ミドリは牛ノ首にナワバリをつくった。人間風に言うと、社会勉強の為にしばらく武者修行に出て、たくましくなって戻ってきたところ。03年6月に出会った時は、見違えるほど逞しくなり、すっかりおとなの雰囲気を漂わせていた。
 04年の秋、交尾時期を迎えたミドリは一人前のオスらしく、せわしく牛ノ首の隅々まで歩き回り、メスとの出会いに終始していた。落ちついて写真を撮る間も与えてくれなかった。この頃牛ノ首には「クロ」と「グレー」という2頭のオトナメスがナワバリを構え、ミドリは2頭のメスとつがいの関係を持っていたのである。若くて元気な二ホンカモシカにはよくあるパターンだ。カモシカの繁殖時期は秋だけなので、ミドリにすれば写真なんかに付き合っていられないというところだろう。
 ある日、いつものようにミドリの後ろを歩いていたら、何を思ったのか、私の方に歩み始めた。昔も似たようなことが何度かあった。しかしその頃は幼いミドリで、単なる興味だけで、これもまたよくあるパターンとして流していた。しかし今のミドリはもうりっぱなおとな。今さら興味なんてと考えていたが、どんどん近づいてくる。体格のいいおとなのカモシカがどんどん距離を詰めてくる。慣れているミドリとはいえ、さすがに恐怖を感じ、立木に身を隠して半身で構えた。
匂いを嗅ぎ取ろうと鼻を突き出すミドリ
・ 撮影年月日:04年9月28日
 3mまで迫った。望遠レンズのピントが合う最短の距離である。緊張するものの反面興奮も覚え、ファインダーから目を離さず、画面からあふれ出るクローズアップを撮影した。写真家の私にとっては凝縮した時間だった。ミドリは私の「匂い」を嗅ぎはじめた。上唇をまくり上げ、私の匂いを懸命に嗅ぎ取ろうとした。これは「フレーメン」と呼ばれる行動で、秋の交尾時期にはメスに対して頻繁に行われ、発情を確認するのである。思わず「俺はメスかい?」と声をかけた。ミドリはひとしきり匂い嗅ぎを済ませると、思惑が違ったのか、きびすを返してさっさと離れていった。もうこっちを振り返りもしない。さきほどとはうってかわって別人のようだ、いや別カモシカだ。
 カモシカの世界は視角ではなく嗅覚だと分かっているつもりだったが、あれだけ接近されると、正直狼狽えた。予期せぬこともあって、久しぶりに恐怖も感じた。ミドリは匂いを嗅ぐことに夢中で危険を超越していたのだろうが、視角世界の私は見えることで本能的に身体が逃げた。嗅覚の世界と視覚の世界の違いであろう。遠ざかるミドリの姿が一段と逞しく見えた。
 3月、日当たりのいい斜面に福寿草が咲いた。その横をミドリが通り抜けて行った。どうらや牛ノ首も本格的な春を迎えそうだ。
もどる