牛ノ首物語。・10
「シャチの16年」


 2003年6月2日、牛ノ首にサルの群れがやってきた。いつものようにサルたちは雑木林に広がり、腰を落ちつけて採食にとりかかった。こんな時「シャチ」を捜すのは簡単だ。群れが一望出来そうな高い場所に双眼鏡を当てれば、大体は見つかる。ボスザルはそんな場所をよく知っている。
 シャチはホオノキに登っていた。採食は終えたらしく、ただ群れのサルを見下ろしている。そして、気持ち良さそうにウトウトと居眠りをはじめた。いつものシャチだった。しかし、まさかこれがシャチの最後の姿になるとは夢にも思わなかった。
 最近はボスザルという言葉を使わず「αオス」と呼ぶことになった。しかしシャチには馴染まない。88年からシャチとつきあい、その頃からボスザルとして観察の中心になり、ニホンザルの生態や母系社会などサル学をシャチの目を通して学んだ。ボスザルはふつう5〜6年で交代する。メスは数年でおとなになるので父親との近親交配が発生する。メスが顔馴染みになったオスを回避するのはこの為で、この周期がボスの交代につながってゆく。
 シャチは利口だった。群れの些細なトラブルでも必ず顔を出す。こども同士の内輪喧嘩にも声を出して威嚇する。しかしこどもが怖がって母親に抱きつくと、さっと立ち去る。この切り替えがシャチは素早かった。他のオスはそのまま母親まで威嚇してしまう。母系社会におけるメスの存在は、あらゆる意味で重要だということをシャチは知っていた。

 「ツツジ」というメス頭がいた。ツツジは一時こどもと孫をあわせて22頭の家族を持っていた。メスはいざとなると血縁でかたまり、数で相手と対決する。シャチはツツジの力を熟知していた。
 こんなことがあった。「カキラン」という若いメスがツツジと些細な喧嘩をはじめた。カキランは最下位のメスで、本来ツツジとは喧嘩にならないが、この日は違った。ツツジが珍しく声を荒げた。すると何処にいたのか、シャチが飛んできて、凄い形相でカキランを追い回した。「ギャン、ギャン」。森に悲痛な声が響きわたった。シャチは容赦せず、カキランを追いつめて背中に噛みついた。「ギャフッ」。一声で森に静寂が戻った。ツツジは涼しい顔でうたた寝をはじめていた。
 オスのメスに対するアピールは当たり前のこと。しかしシャチのツツジに対する反応は異常なくらい過敏だった。ツツジの声を聞き分けているとしか思えなかった。人間社会でいうところの「えこひいき」。シャチはツツジの用心棒に徹することで、あしかけ16年もの長い期間のボスザルの地位を保っていた。
 01年にツツジが死亡してから、急速にシャチの足場が不安定になった。ツツジの後継者の一時的な分散、群れ頭数の増加、年齢の衰えなどさまざまな要因が考えられるが、ある日突然シャチは、自ら身を引くように群れを去った。でも利口なシャチのことだ。どこかの群れにはいって、木の上でうたた寝でもしていることだろう。現在はナンバー2だった「カナガシラ」が後釜に座っている。

終わり

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