牛ノ首物語。・2
「マナブ君」

 産まれたばかりの二ホンカモシカのアカンボウは、まるで犬。ひとりで道路を歩いていたら、間違いなく口笛を吹いて、手を差し出す。鋭い角を持った親が一緒に居て、はじめて「カモシカのこども」に見える。
 1997年春、牛ノ首のムラサキがオスのアカンボウを産んだ。ご多分にもれず、犬のようなこども。小さなお尻を振りながら母親のあとを追う姿は、可愛いの一言に尽きる。父親であるオスのゲンジがやってきても、何の躊躇いもなくついてゆく。考えれば無防備なものだ。 
 冬期、我が家を何度も訪れた大学生がいた。教育学部の学生だが、ひょんな事からカモシカ調査に興味を持ち、関東から夜汽車で通ってきた。名前を学といい、みんなから「まなぶ君、まなぶ君」と呼ばれてかわいがられていた。その彼が、全体調査の前に牛ノ首の観察に時間をかけていた。そして、当時産まれたばかりのムラサキのこどもが大のお気に入りで、ずいぶん惚れ込んでいた。夜行から乗り継ぐと昼過ぎに我が家に到着する。彼は荷物だけ置いてすぐその足で牛ノ首に向かい、また、調査の終了後も出発時間ぎりぎりまで牛ノ首で粘っていた。調査中も彼の話題はもっぱら「まなぶ君のカモシカ」のこと。あまりにも話題にするので、名前を「マナブにしようか?」と相談したら、「はい、ぜひお願いします」と即答。以来、牛ノ首のアカンボウは「マナブ」になった。
 マナブ君は順調に成長を遂げ、旅人が牛ノ首に散策に出かけると、かなりの確率で観察できた。他のカモシカに比べると母親離れが早く、早い時期から一人歩きが多かった、そのうえ、いきなり出会ってもすぐ逃げることがなかった。そんなことからも「ズブの素人さん」たちに人気が高かった。
 人間の学くんが卒業をする年、こんな事があった。牛ノ首でヤブを漕いでいたら前方でゴソゴソと大きな音がした。相手がすぐにカモシカだとわかったので、立ち止まって息を潜めた。すると、相手も同じことをしているらしく、物音ひとつしない。しばらく時間が流れたが、こっちが辛抱出来なくなって、茂みの間からそっと覗いた。マナブ君だった。動きそうもなかったので、カメラを取りだして3枚だけ撮影した。マナブが2才になる春であった。翌年マナブは牛ノ首から姿を消した。
 マナブの名前も忘れかけた頃、人間の学君からメールが届いた。牛ノ首の観察を教材にして教育実習をしたところ、生徒達に大受けで、生きた理科の授業が出来たとの内容。彼が授業している様子が目に浮かんだ。そして、いい教師になるだろうと思った。
 マナブ君が旅人に貢献してくれたこと、3才で独立したようすをまとめ、そして藪の中で撮影した写真を添付して返信しておいた。マナブ君の果たす役割はまだまだ膨らんでゆく気がした。

もどる