サルの目カモシカの目:牛ノ首物語・9

「6月の新入り」
 2001年6月、牛ノ首で新しいニホンカモシカと出会った。おりしも、長く観察していたメスのカモシカ
「ムラサキ」の姿を見なくなり、また、長い間つがい関係を持っていた「ゲンジ」も観察できなくなった。ひ
ょっとすると新しいカモシカとのナワバリの入れ替わりかという事が頭をよぎった。「新入り」のカモシカは
、あまり警戒する素振りがなく、はじめて出会うカモシカという印象がなかった。
 私は背後に回り込んだ。地面に体を伏せて、双眼鏡で後ろ足の間をひたすら覗き続けた。成育している下草
が邪魔になって、オスの証拠がついている肝心の場所が見えない。かれらは時々脚をあげて毛づくろいする事
があるが、こんな時に限って何もしない。それでも30分程粘って、あるべき物がないという結論に至った。
ここで、メスカモシカのムラサキとのナワバリの入れ替わりという仮定が浮上した。
 ある秋の日、クロが1頭のカモシカと連れだって歩いていた。はじめは新たなカモシカかなと思ったが、よ
く見ると6月の新入りカモシカ。しかしクロはメス。ナワバリを反発させるメス同志では考えられない行動。
「そのうちに追っかけ合いが始まるかも?」と思いつつ様子を見ていたが、二頭はずいぶん馴染んでいる。「
まさか血縁関係があるわけでは…?」などと思いを巡らしはじめた時、新入りがクロの後ろに回り込んだ。そ
してお尻の匂いを嗅ぎはじめた。「えっ、まさか?」と思った。そのまさかだった。メスだと思いこんでいた
新入りはオスだった。目の前で交尾行動が開始された。
 帰ってから、今まで撮影した新入りを含めたカモシカの写真すべてを見直した。ルーペで細部を覗き、パソ
コンに取り込んで隅々まで拡大して調べ直した。ノートに記録した観察データとも照合して洗い直した。完全
な思いこみだった。6月の新入りはクロの近くで何度か撮影していて、不明個体として記録していた。約1年
分の不可解な観察データが氷解した。あらためて新入りには、オスに相応しい「チャコール」と名前をつけた
。牛ノ首のカモシカの生活図は、ムラサキとゲンジの時代からクロとチャコールに移り変わっていた。ムラサ
キとゲンジはその後も観察できず、死亡と記録した。
 15年前、不可能だと考えていたカモシカの個体識別は今では当たり前になり、カモシカを肌で感じる事も
出来るようにもなった。しかし、思いこみは蓄積した歳月を簡単に吹き飛ばしてしまうことも学んだ。以前、
「森の懐は深い」という言葉を使ったことがあるが、もう一度使いたい気持ちになった。

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