サルの目カモシカの目:牛ノ首物語・7


「アラスカからの訪問者」

 今年の2月、アラスカから友人でもあるカメラマンがやってきた。名前はスティーヴ。彼は世界中の野生動物を撮影している自然
写真家。独身時代に一度脇野沢村を訪れているが、今回は5年前に結婚したライターでもある夫人を伴っての来訪。北限のサルとニ
ホンカモシカのフォトストーリーを共同作業でつくるのが目的。
 最初のスティーヴの来訪には苦い思い出がある。かれは日本語が解らなかった。もちろんカモシカの生態も知らない。森の中で、
言葉が通じない者同志が共同作業をする困難さはある程度覚悟していたが、想像以上だった。英和と和英の2冊の辞書を使い、ボデ
ィーランゲージを駆使しても肝心なニュアンスが通じない。カモシカとつき合う為には不可欠な要素。スティーヴがようやく理解し
た時には、すでにカモシカは姿を消していた。もちろん仕事どころではなく、当時、スティーヴはカモシカの天敵でもあった。
 今回は日本の友人たちと一緒になった。ひとりは東京の新聞記者。彼女は昨年末にアラスカ取材を終え、もうひとりは学生時代に
アラスカの国立公園を訪れている写真家。偶然が重なったとはいえ、私には心強い。
 翌朝、牛ノ首に出向いた。まもなく足跡を発見。大小の蹄跡が交錯し、「クロ」と「グレー」親子が一緒に歩く姿が目に浮かぶ。
しばらくトレースして、スギ林を入ったところで親子に追いつく。母親のクロは目を見開き、鼻の穴が膨らんでいる。警戒のレベル
が高い。さっそくくわしい状況を通訳してもらう。スティーヴは神妙な面もちでうなずく。親子はゆっくり遠ざかってゆく。慎重に
追跡するが、落ちた枝を踏みつけて「ペキッ」「ポキッ」と景気のいい音が林内に響く。スティーヴが肩をすくめるが、こればかり
は仕方がない。
 岩の上に親子が並んで立った。いわゆる「絵」になる姿。スティーヴも思いは同じらしく、私の許可を無言で催促している。しか
し、まだクロの警戒は解かれていない。ここが一番大事なところ。言葉を慎重に選んで通訳。とにかく時間をかける必要があった。
林内に長い静寂の時間が流れた。 
 クロの前足が動いた。「やはり無理か?」。ところが目を疑った。クロはその場に座り込み、グレーが寄り添った。クロの目から
は警戒の色が消えていた。言葉はおろかもう通訳の必要もなかった。状況を理解したスティーヴはカメラを取り出しはじめ、マリー
ビーはスケッチブックを取り出していた。
 微かなシャッター音と鉛筆の音だけが聞こえる林内で、ふと10年前が懐かしく思いだされた。スティーヴは、言葉の壁ではなく
時間の壁を乗り越えたようだ。

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