サルの目カモシカの目:牛ノ首物語・5

「ミドリ」


 2000年6月、ムラサキが1頭のアカンボウを連れて歩いていた。新緑が目にまぶしい日で、
迷わずに「ミドリ」と名前をつけた。ニホンカモシカは春に1頭のこどもを出産する。1年間は
ほとんど一緒に行動し、その後はこどもの単独行動が目立ち始め、2〜3年後に母親のナワバリ
から姿を消す。
ムラサキは昨年の夏に死亡し、ミドリは早い時期から単独生活を強いられた。しかし、初めの1年間
で採食や危険回避行動等が刷り込まれ、自活する力を備えたミドリは母親のナワバリの中で
淡々と生活した。
 隣にクロというメスカモシカがナワバリを構えている。2001年春に初めてこどもを出産
している。まだ幼いミドリは、知らず知らずのうちに母親のナワバリから越境することも多くなり、
よくクロから追いかけられた。カモシカのナワバリの保守性は非常に強く、侵入者は徹底的に
排除される。ましてやクロはこどもを抱えてデリケートになっている。ミドリは何度も接近し、
何度も追われた。ミドリにとって意味がわからないのだろう。自立しているとはいえ一歳半である。
まだ保護してくれる相手を捜しているのかも知れない。観察しているうちにさまざまな事が脳裏
をよぎった。
 しかし、そのうちクロも諦めたのか、しばらくすると3頭が一緒に歩いている姿を見かけるよう
になった。距離こそ少し間をおいているが、一緒に採食したり、座り込んで反すうしたり、生活
のリズムが一緒であった。ある日、目の前で「フシュッ」と甲高いカモシカの警戒音がした。
「あっ」と気がついた時は手遅れだった。イタドリが生い茂って見通しが悪いが、様子から
カモシカの至近距離だと分かった。しばらく立ちすくんだ。すると、5m前のイタドリの葉の
間からカモシカの顔がひょっこり覗いた。そして、次々と別の顔が現れた。順番はクロ、ミドリ、
グレー、そして背後に新参オスのチャコールという牛ノ首のカモシカが全員勢揃い。あまりに
もの至近距離で一歩も動けなかった。しばらく辛抱していたが、足がしびれ、ちょっと踏み換
えた瞬間、ドカッドカッと音がした。カモシカたちは一斉に消えた。しかし、走り去る後ろ姿
の中に、クロのこどものグレーをかばうように走るミドリの姿があった。その様はまさに家族群。
写真こそ撮れなかったが、その様はしっかり脳裏に焼き付いている。
  ミドリは今春で2才になった。角も成長し、行動ひとつにも逞しさが出てきた。カモシカ
社会ではもうおとなの仲間入り。いつの日か牛ノ首をあとにする日が来るだろう。ムラサキの
忘れ形見だけにもっと付き合いたいが、カモシカの世界ではそうも行かないだろう。ふと、
人であることを忘れてしまう。

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