牛ノ首物語・8
■ 「ミドリ」
2000年6月、はじめて「ミドリ」に出会った。親の「ムラサキ」が一緒でなければカモシカ
には見えない。まるでぬいぐるみ。生後間もないカモシカのアカンボウはとにかく愛らしくてかわいい。
牛ノ首は新緑につつまれ、新しい命の息吹に満ちあふれていた。
カモシカの子育ては母親だけの役割。約1年間、一緒に生活してさまざまな事を覚えさせる。
なかでも大切なのは危険を察知して逃げる判断を養うこと。生まれたばかりのアカンボウはとに
かく身近なものに擦り寄る。相手構わず近づいてゆく。アカンボウの頭には危険も逃避も何もな
い。親が逃げる行動を見せ、体験を繰り返え繰り返すことで「危険」を「学習」する。時々、
カモシカのアカンボウが保護されるが、人間の飼育下では野生に不可欠な逃げる行動を教える
ことは出来ない。
ミドリは、生まれた初めて出会ったであろう私に対して、母親の反応を探りながら、懸命に
分類しようとしていた。ムラサキは下草を食べながらゆっくり私から離れて行く。これも一種
の逃避行動だが、幼いミドリにはまだ状況が理解できないようだ。私が地面に座り込んでじっ
としているので、安心しているのか、のんびり餌を探している。ちょっと声をかければ、こちら
に寄ってきそうな雰囲気すらある。そうしている間にもムラサキはどんどん離れ、こちらに向き
直った。「フシュッ、フシュッ」、静寂を破って鋭い鳴き声が響いた。ムラサキの警戒音だ。
ミドリは走った。そして、母親に体をくっつけ、何度も匂いを確かめた。ムラサキは平静を装
っていたが、目つきが鋭くなっていた。
11月下旬、牛ノ首が雪化粧をした。藪を抜けるところで気配を感じ、隙間からのぞくと
ミドリが立っていた。距離は6m。すっかり冬毛にくるまれたミドリは、愛らしさの中にも
逞しさを漂わせ、私をじっと見つめていた。近くにムラサキの姿はない。ゆっくりカメラを
取り出し、そっとシャッターを押した。が、2枚目を写し終えたあと、ファインダーの中に
ミドリの姿は、もうなかった。藪の中を走り去る音だけが聞こえ、安心した反面、恋人に去
られたような淋しい気持になった。
2001年8月7日、一段と成長したミドリに出会った。角が伸び、おとなの雰囲気が漂よい
はじめたミドリは、こちらの様子を伺いながらゆっくり私から離れて行く。そのさまは昨春の
母親ムラサキとそっくり同じ。ミドリは牛ノ首の風景に見事にとけ込んでいた。
文責、いそやまたかゆき