サルの目カモシカの目

牛ノ首物語・2

「ムラサキ」

 87年9月、牛ノ首ではじめてニホンカモシカに出会った。作業道を登っていると、

突然、林のあいだから「ヌッ」と現れた。文字通り「藪から棒」である。

 当時、カモシカは村内の別の地域で何度か見ていたのだが、まだ顔の区別もつかず、

どのカモシカも同じ奴に見えた。オスメスとも角があり、体の大きさも変わらず、

見極めるのには難解な動物。でも、何度か同じカモシカに出会っているうち、雰囲気

がどことなく違い、何となく様子が分かってきた。

 いわゆる個体識別というものだが、角の角度、額の毛の色、鼻筋の模様、耳の形など、

それぞれ全部違う。オスかメスかは決定打。しかし、これはカモシカの後ろに回り込

んで、地面に這いつくばって股間を双眼鏡でのぞき込む。分かるまで繰り返す

この作業は辛い。ズボンからシャツまで泥だらけ、下手をするとダニといい

お友達にもなる。バードウォッチングは女性に人気があるが、カモシカがいまひとつ

なのはこのあたりのこともあるのではないかと私は思う。どうみても、

格好のいい姿ではない。

 牛の首ではじめて顔を覚え込んだカモシカが「ムラサキ」だった。秋が深まった1

1月、再び林道で出会った彼女と私は、しばらくそのまま向き合っていた。まだ

カモシカに不慣れだった私はどうしていいのかわからず、正直言うと、動けなかった。

だんだん居心地が悪くなってきた私は、知らず知らずのうちに後ずさりを始めていた。

少し離れたところで、ようやく気分が落ち着き、地面に座り込んだ。すると、彼女も

安心したのか、ようやく動きはじめ、傍らの草を食べ始めた。その時、少しカモシカ

の世界をのぞき込んだ気がした。

 脇野沢村のサルたちには、オスは魚の名、メスには植物名をあてるというルール

がある。ところがカモシカには何もない。友人の名をつけたり、教授の名前を改変

したり、多種多彩。かつて、カモシカに向かって失恋した彼女の名前を絶叫した学生

もいたという。森の哲学者、孤高の動物、生きた森の化石など、崇高なカモシカの

イメージもあったものではない。

 私は林道に座ったまま哲学者になった、いやつもりだ。メスで顔立ちが良い、

いわゆる美人。歴史的人物の紫式部が浮かんで即決。後につがいの関係を持って

いるオスには「ゲンジ」をあてた。かくして、「ムラサキ」と「ゲンジ」の歴史絵巻

の幕が開いた。結局、五十歩百歩…か。

いそやまたかゆき

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