「サルのすむ村」2 脇野沢の三十五年

 

「捕獲」

 

 1964年の餌付けから十年が過ぎた。数は80匹まで増え、北限のサルを守る成果が現れた。

しかし、このころから、人への警戒心が解かれたサルたちは、畑も歩き回るようになる。

作物の被害が目立ち、小さな村の大きな社会問題になった。

 九艘泊集落の自治会長が、猿害が飛び火した隣の集落に「おらほのサルが悪さしてすまねえ、

何とも申しわけねえ」と謝りに行ったという話は、当時の話題になった。この言葉には、

サルたちをわが子のように扱っていた人々の心情がにじんでいる。

 「餌付け」による保護の方針を転換せざるを得なくなった。餌の量を半分に減らすとともに、

畑からの追い払いが始まり、山での生活移行を狙った方向に切り替えられた。しかし、

一度覚えた畑作物の味や、人の優しさ?を知ったサルたちは思い通りにはならず、

空腹を満たす為にますます被害を増大させるようになった。困り果てた村は、学者、

研究者に対応策の検討を依頼するなど懸命に取り組んだが、決めては見つからなかった。

そして、さらに悪いことに、群れが分裂、被害地域が拡大した。

 1982年、万策尽きた村は、捕獲を決定した。73匹の一つの群が、

サル山を形づくったオリに収容された。残った群れへの餌付中止も決まり

畑からの追い払いが本格化した。餌付けから18年、サルたちは150匹を越えていた。

サルたちの収容は、状況をみて再び山に帰す一時的なものだったが、そのまま現在の

「野猿公苑」に至っている。

 猿害拡大による捕獲は、餌付けに協力した村人たちの心に大きな傷跡を残した

。当時の話になると今も口が重くなり、その傷の深さを物語る。

 村人の心の温かさから始まった「保護」運動にピリオドが打たれ、人とサルは追う、

追われる関係になった。

 

いそやまたかゆき

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